氣感あれこれ2
このページは思いつくままに書きます。雑話その2です。
争いについて
人は誰でも自分を中心に物事を考えます。半ばは自分・半ばは他人のことと考えることができるようになれば、世の争い事は半減するでしょう。
極性ということで考えたとき、陰極・陽極を併せ持つことが必要かもわかりません。極端に陰の人に陰極の感情をぶつければ反発が生まれるだけですし、陽極の人に陽の交わりを持とうとすれば、競い合いを生むことになるかもわかりません。大きな心でゆとりを持って相手と接することができれば、争いなど起ることもないのでしょうが…。常に意識のどこかに自分の損得を勘定する部分があるように思います。その部分をできるだけ小さくしていくことも修行の一つでしょうね。
自分というもの
私達はあらゆる思考・行動をする時必ず自分というものを中心に置いています。自分が快く感じることを求めて思考します。最近感じることはその中心にある自分のみが存在して周りの人達の快く感じる部分を無視する人達がどんどん増えてきているということです。
空手の段級審査会でも思うことですが、自分の段位を上げることのみに囚われて技術の向上しか頭にない人がいます。段位に相応しい人格向上は忘れているのです。道場に来ても自分の稽古しかしない。後輩や子供達の指導は気が向かないとやらない。そんな人が増えてきています。高段者は指導力も必要だということを忘れてしまっているのでしょう。その場限りの約束をしたりする人も自分しかないのでしょうね。
エネルギーグッズ2
前回のエネルギーグッズの補足をします。これらの物が完全に無価値だと言ってる訳ではありません。必要とする人がいることも事実ですし、その物によって救われた人も大勢いることでしょう。すごく心が病んでいたり、荒んでいたりした時には、頼る人・物が欲しいのは当然ですし無理からぬことです。
そんな時に凄いパワーの入ったグッズがあると聞けばそのグッズに魅了されるのは仕方ないことだとは思います。そしてそれを手に入れて苦しみなどから解放されるなら価値あるものと言うことが出来るでしょう。
ただ、そういった人達はそのグッズに対する信頼感が意識付けされて、その人自身の持つ氣導力が顕現されたということを知らないだけなのです。氣導力を発現させるためのグッズであるならば価値あることと思いますが、グッズそのもののエネルギーの強さの比較がなされているようで悲しくなります。私たち自身の内にある高次元意識の波動に勝る波動は無いのだということを考えてみませんか? 宗教の比較と変わらないことを論じていると思いませんか?
それともう一つ効力に期限のあるグッズが存在することを知り、驚くやらあきれるやらでした。これなど作成した人物の想いそのものではありませんか。これは有効期限○○年と意識しながら作成したということでしょう? 神社の御札やお守りと同じく商品でしかないということですよ。有効期限付きでエネルギー注入する方法を教えていただきたいです。
健康
人は誰も健康であるときには「健康」を意識しません。病気になったり体調を崩したときに初めて「健康」というものを意識します。
氣のトレーニングを行なおうとする動機も健康を害した事がきっかけという人が随分いらっしゃいます。健康体で始めた方でも、意識の次元が上昇するとき体調を崩したのと同じような症状が出る事があります。瞑眩反応とも好転反応とも言います。殆どの場合、2〜3日安静にしていれば戻ります。
しかし、今、健康だけを目的に氣のトレーニングを行なう事は不足感を増すことになり、精神医学上好ましくないという方もおられます。即ち肉体だけの健康を願っていては満足出来る結果は出ない。心も共に健康であるべきだという事ですよね。
では心の健康とは一体どういう状態の事を言うのでしょうか。平安と落ち着き・寛ぎと安らぎ・希望と喜び・無我と静寂などの状態を言います。そして無私の愛に満ちていて真実を遂行することなのです。勇気や信念、明るさ、大らかさも必要ですね。これらが揃い心の健康が為されたときには、肉体の病などどこかに消えてしまっていることでしょう。心が健康であれば肉体も健康です。
守護霊
文字通りその人を守護する役割を持つ霊のことなのでしょうが、その定義は霊能者と称する人達の間でも1人1人違う説を唱えておられてさっぱり実態が掴めないのが現状です。中でも割と多くの方の説が先祖の霊が憑くということらしいです。私達が言う神我(真我)・ハイヤーセルフとの関係は?と疑問が起こります。
先日、TVで著名な霊能者があるタレントを霊視して「おばあちゃんが見守っておられますよ。ぼた餅が食べたいから供えて欲しいとおっしゃってますよ。おばあちゃんはぼた餅が大好物だったでしょう?」と言うとそのタレントは大粒の涙を流して感激していました。これっておかしくないですか。このタレントが生前のおばあちゃんを知っているということは亡くなって間がないということだし、成仏していないということですよね。守護する力があるのでしょうか? ぼた餅が食べたいなんて次元の低いことを要求するのでしょうかね。
霊とは肉体という衣を脱いだ時に顕れる本質を言い、その時点から大霊界へ融合する準備が始まります。しかし生前に強烈な悪想念や継続的に悪想念を抱いていた場合にそれがエネルギーを形成し、その残留エネルギーを霊視すると肉体を持っていた頃の姿が見えます。ただその霊視というものは意識の次元を残留エネルギーに同調させるということに他ならないのです。そしてその次元は非常に低いと言ったら言い過ぎでしょうか。
もし守護霊という存在があるならそれ相応の力を持っていないと務まらないですよね。守護霊と真我が同じ存在を意味するのなら意義あることだと思いますが、一般的には別の存在のように語られています。本当の自分である真我と繋がることの方が意義あることだとは思いませんか?
僅差
年間何回か日曜日や祝祭日に空手の大会があります。そしてその大会に要請を受けて審判員として参加することが多くあります。実力が拮抗している選手同士の組手試合は非常に判断し難いといえます。攻撃を仕掛けるタイミングやスピードが殆ど同時に見えることが多くあります。
相打ち・相突きで判定すれば楽なのかも分かりませんが実際にはそれは有り得ません。4人の審判と1人の監査で構成された審判団で判定を下しますが人間の目で下すものです。見る角度によっては逆に見えることもあります。
その際に勝負の行方が逆になる可能性がありますね。わずかの差で出る結果が全く違うということは日常生活の中でもよくあることですが、それに対処する心の強化が凄く大切なことになります。電話を1本しておけば契約できたのに翌日にのばしたためにライバルに取られたとか、ほんの僅かな金額の差で落札しなかった等たくさんの事象がスタート時の差それも本当に少しの差で大きく結果が違うということを体験することがかなりあるように思います。特に先述の空手の試合のように勝ち負けの場合は立場が正反対に変わる訳ですから、わずかの差を見極めることが最重要となります。
何事も僅かなことだからと見逃すことのないように気をつけるべきですね。勝ち組と負け組の差は僅かです。始まりは差はありません。結果が大きく違うのはプロセスに問題があるのかも分かりません。心を配ることを忘れない様にしましょう。